をよろしくお願い致します。
投稿日:2018年3月9日
ある出来事を経験したとき、心が和むか、それとも腹立たしい気分になるか。
これらを分けるのが、一人ひとりの「心」です。
その意味で、心とは、喜びの多い人生を築くための鍵といえます。
私たちはこの心を、日々どのように磨いていけば
自分自身をよりよい生き方へと導いていけるのでしょうか。
かつて、魚のカマスを使って、次のような実験が行われました。
カマスを入れた水槽の中央を透明のガラスの壁で仕切り、
その向こう側にはエサとなる小魚を入れておきます。
カマスがエサを獲ろうとすると、仕切りの壁にぶつかります。
カマスはこうして痛い思いを繰り返すうちに、
「ここから先へは絶対に行けない」
「ここを越えようとすると痛い目に遭う」と学習します。
すると、後でガラスの壁を取り除いても、その「思い込み」によって、
壁が立てられていた先には行こうとしなくなる、というものです。
これは極端な例かもしれませんが、
似たようなことは、私たち人間にも起こり得るのではないでしょうか。
私たちは、実際の行動に表れる「習慣」とともに、
考え方や心づかいの面でも一人ひとり異なる「習慣」を持っています。
自分では意識せずに出てしまう癖のようなものですが、
これを日々繰り返す中で、自分自身で「思い込み」や「決め付け」を生み、
実際には存在しない「壁」が今もあるかのように
錯覚してしまっていることがあるのかもしれません。
心とは、目には見えないものですが、
その見えない「心の習慣」も、私たちの人生に大きな影響を与えます。
喜びの多い人生を送るためには、
意識して「よい心の生活習慣」をつくっていきたいものです。
それが「心を磨く」という習慣です。
「心を磨く習慣」によって、その名を歴史に刻んだ人物がいます。
江戸時代に活躍した儒学者、広瀬淡窓(1782~1856)です。
淡窓が大分県日田の地に開いた私塾「咸宜園」は、全国各地から門下生が集い、
明治30年の閉塾までに約5,000人が学んだという、日本最大級の私塾です。
各藩が設立した公立の学校とは異なる一民間人が個人的に興した私塾が、
なぜこれほどの門下生を集めたのでしょうか。
その鍵は、「人としての正しい生き方の模範」を後ろ姿で示し、
己の心と厳しく向き合い続ける淡窓の姿にありました。
咸宜園の入門者が増えれば増えるほど、
淡窓はみずからを深く省み、自分自身にさらなる修養を課したといいます。
それを象徴するのが「万善簿」と名づけられた善行実践の記録です。
1日を振り返って、よいことをしていればその分だけの白丸を、
また、悪いことをしていればその分だけの黒丸を帳面につけるというものです。
そして月末には、白丸の数から黒丸の数を差し引いたものを
純粋な善行の数として集計し、その累計が一万に達することをめざしました。
白丸の例として見られる実践項目は、
「人に勧めて善を為す」「財を捨てて人を利す」「善書を著す」
「怒りを忍ぶ」「放生(捕らえた生き物を放してやること)」などです。
黒丸の例としては「殺生」「食べすぎ」「財を惜しむ」などが挙げられます。
淡窓は「万善簿」を54歳からつけ始め、12年7か月をかけて、
67歳でついに“一万善”を達成します。
しかし淡窓はそれでよしとせず、次の万善をめざして記録を続け、
生涯を終えるまで修養を積み続けたといいます。
淡窓は、50歳を過ぎたころに自分の性格を省みて、
「自分には三つの病がある」と述べています。
「怠けること」「臆病なこと」「利己的でケチなこと」
――この三つとも根は同じであると考えた淡窓は、
まず「怠けること」から改めようと思い定めます。
そこから“万善”をやり抜く決意を固めたのでした。
その感化を受けた門人には、大村益次郎(幕末期の医師・西洋学者)や
高野長英(江戸後期の蘭学者)などの英才が現れています。
そして、彼らも自分の心を磨きながら、新しい時代の礎となっていったのです。
中国の古典に「善積まざれば、もって名を成すに足らず。
悪積まざれば、もって身を滅ぼすに足らず」(『易経』)とあります。
私たちの人生における大きな出来事は、一朝一夕に成るのではなく、
長い年月にわたる小さな「心づかいと行い」が積み重なった結果であることを
説いたものです。
一見すると「小さな心がけ」であっても、
それをコツコツと積み重ねることは、やがて大きな結果をもたらすものです。
童話の「ウサギとカメ」に見るカメの姿は、不器用ではあっても一歩一歩、
着実に努力を重ねることの尊さを教えてくれているのではないでしょうか。
日々の小さな「心づかいと行い」に注意を払い、
心を磨く実践を続けて善行を積み重ねていけば、それはいつしか習慣となり、
やがて喜びの多い人生、安心に満ちた社会を築く原動力と
なっていくことでしょう。
(『ニューモラル』529号より)
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